極限で似るものの家
あなたは「極限で似るものの家」をご存じだろうか?
これは岐阜県養老町にある養老公園の「養老天命反転地」という巨大な現代アート群の中の一つ名称である。インスタなどオシャレな写真の撮影が流行っている今こそピックアップされるべき公園であると思う。
ちなみに『聲の形』にも登場する。そういえば、一度カラオケに行ったときに、カラオケ映像で流れていたこともあった。
もとい、「極限で似るものの家」の話であるが、小さいころに家族で養老公園に遊びに行ったことがある。
「極限で似るものの家」と名付けられたその奇抜な作品は、とてもじゃないが意味を理解できなかった。最初は壁に家具が埋まっていたりしたので何かしら「体験するもの」だと思っていた。子ども向けのボールプールやアスレチックのようなものだと思っていたのだが、どうも違うようだった。
もちろん作者が意図するそれなりに意味はあるのだと思う。ちなみにwikiでは
『極限で似るものの家』は、建物内の机や壁・天井が上下左右を全く無視した場所に配置されており、視覚的な錯覚を体全体で楽しむ施設である。『楕円形のフィールド』は、日本列島をモチーフとした屋外施設だが、起伏に富んだ地面が不思議な感じに構成されており(通路の床面がいつのまにか壁面となる、など)、これも感覚の不安定さ・危うさを体全体で楽しむことを目的とした施設である。こうした日常生活では触れる機会の少ない錯覚感、不安定な感覚を体全体で味わうことにより、人間本来の感覚を再確認することを主要なテーマの一つとしている。
というふうにこの作品群のねらいが示されているが、当然小さいころの私にはわからなかった。両親も分かっていなかったと思う。今の私ならこの意味について理解できなくもないと思う。
しかし、理解する必要があるのかと言われれば、「その必要はない」とはっきり言える。残念ながら、私はその当時の「極限で似るものの家」への理解から一歩も進んでいないのである。
私の中では「極限で似るものの家」というのは、「小さいときから理解が止まっているもの」の代名詞となっている。少し調べればわかるはずのことをずっと放置してしまっているなんて経験ないだろうか?
必要ならば調べるのだろうが、別に必要もないし、興味もないのでスルーしつづけている事柄。
案外そのような事柄があなたの人生を開けたものにしたり、しなかったり。。