「友達 自殺」で来られた方へ
このブログは私の過去の、簡単に人には言えない気持ちの置き場になっています。
サーチコンソールを調べると、特に検索で来られるのが多いワードが、
「友達 自殺」
「出会い ブロック」
というものです。
奇しくも「出会い」と「別れ」なのですよね。
これらはコインの裏表。
出会いがあれば必ず別れがくる
「出会った」瞬間にそこへの思い入れの大小はあれど「別れ」という結果がついてまわります。
何かおおげさに言っているようにも聞こえますが、我々はその「出会い」と「別れ」を繰り返し、日常を過ごしているわけですよね。
その中で我々は突如として「死別」というものを経験していきます。
仏教の中でも避けられない人生の苦痛として「四苦八苦」があります。
四苦は生・老・病・死
死別、特に友人との死別というのは愛別離苦ですかね。
愛するものとの別れというものは残念ながら絶対に訪れます。
自殺というものは少し違った感情を残す
それでも、自殺というものが我々に残す感情というものはまた違うような気がします。。
私の場合は、彼の死というものをリアルタイムに経験しなかったものですから、変に冷静になってしまっています。
おそらく彼の死に立ち会った私の友人と、私の悲しみというのは桁違いなのだと思います。
おそらくここに来られた方の中には、そういう大きな感情、または穴が開いたような気持ちを抱えたままウェブ上を彷徨っておられるのではなかろうかと思います。
まずこのサイトで勉強させていただきました。
ご家族ご友人を亡くされた方をケアする人のために(心理学総合案内こころの散歩道)
知っておきたいこと
死別を乗り越えるには3つの段階があるということです。
・急性期
ショックを受け、頭が真っ白になる感覚の麻痺や、身体感覚の変化、激しく深い悲しみ、号泣の段階。
通常は、1~2週間。
災害や事故の様な「予期しない死」の場合は、特に強い。
この段階では「しっかりしなさい」と言った励ましは有害。泣くことには意味がある。
・中期
亡くなった方に心がとらわれる段階。数週間~1年(個人差は大きい)。うつ状態でふさぎこみ、また時には躁状態で妙にはしゃぐ。精神的にはかなり不安定でも外見的にはきわめて正常を装い、一見元気に学校や会社へ行く。
けれど、心の中では、自責感があり、不眠、食欲不振状態になったり、うらみ、怒りなど、様々な感情が出てくることも。周囲からは、「早く元気になれ」とせかされたり、逆に少し元気な言動が出てきたことを責められたりすることで、辛さを感じる。
このような状態が1年(子どもが亡くなった場合は数年でも)続くこともある。
しかし、これらのことは、まったく正常なこと。だれもが、そうなること。
・回復期
人生は続いていると感じる。自分もまだ生きて行こう、まだ人生の目標はあると思える時期。。激しい悲しみや苦痛なしに、故人について語れる。アルバムを開き、故人との思い出を優しい気持ちで語り始めることができる。
これを読むと、私の不謹慎な「ラッキー」という感情は中期で起こりうる感情だと知って何だか安心しました。
どの段階にいるのかを知ることで少し客観的になれると思います。ただ、努力して乗り越えることではないということです。ひたすらに悲しむ時間というものが必要であるということです。
「自分を責めるな」と簡単に言いますが、責めてもいいと思います。そういう感情が出てくるのは自然なことです。
私がやったこと
上のサイトは被災者、その支援者向けのサイトなので、
「死にたいと言われた」
「自殺の予兆を感じていた」
「自殺のサインを見逃してしまった」
そういったものとは少し違いますよね。。
私は安易に「あなたは悪くない」とは言いたくありません。
自責を感じているのは
「あのとき、こうすればよかった」
という自分の後悔からくる感情です。
ここからはあくまで私の個人がどうしたかなので参考になるかはわかりません。
ひとしきり悲しんで落ち着いたあとの話ですが、彼の両親に何かできないかと考えました。
私は自分が見聞きした生前の彼の話をすべて書き起こして渡すことにしました。
彼の両親の知らない姿を少しでも教えようと思ったからです。
今思うと「彼の両親のために一生懸命になる」という行動はよかったと思います。
これに意味があったのかと聞かれると自信はありません。
単なる自己満足だと思います。
しかし、少しでも行動したということが贖罪、いや贖罪の変わりになるのではないかと。
自分を苦しめることも時期によっては必要になると思います。
それでも、亡くなった方の家族のための行動や、亡くなった方に手を合わすことも平行してやっていけると一番かなと。
これからも生きていく自分のためでもあります。
そういう気持ちになったらの話ですよ。
できないときには無理にしないほうがいいですから。