やさしい人

人には言えなかったことを思い出しては書いています

崎山蒼志「独赤(どくか)」を聴いて思ったこと

 

 

 

深夜Twitterをやっていたら、ボンゴさんのツイートが。。

 

 

 

 

 

ざわ・・ざわ・・

 

ボンゴ砲炸裂!

「独赤」「変わらぬ祈り」「夏の隣の」3本の動画があげられました。

ボンゴさんありがとうございました。。 

 

そのうちの最初の「独赤」が実にいいですね。。

 

 

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何の気なしに歌詞の文字起こしを始めたのですが、歌詞がいまの自分には相当効きました。

 

 

 

「独赤」は深い

 

伝わるかわかりませんが、思ったことを書いていこうかと。。

全然辻褄が合わないですし、筋も通っていない、端から合わせる気もない感じなので、おそらく読んですっきりはしません!

 

それでもよろしければ。。

 

 

「独赤」

 

 タイトルの「独赤」は心臓のことかなと。心臓は「生きている」ことの象徴とも捉えられますが、「恋」「愛」などの象徴にもなります。この記事のために「独赤」を何回も聴いているとギターが心臓の鼓動のように聞こえる瞬間がありましたね。色彩的には「赤」「黒」という二色を思い浮かべました。

 

 その心臓の音ですが「控えめに控えめに」という短歌にでも出てきそうな表現力でもって形容しています。ちなみに心臓の音を「控えめに控えめに」したいときっていつですか?緊張や興奮で「ドキドキ」しているときではないですか?例えば、好きな人の近くにいるときとか。。

 

 歌詞の冒頭で「人間はいつだって他人になれる距離でいる」ことへ「すごいねえ」という気づきがあります。「紙一重の日々」という言葉で、友人や恋人などの周りの人間がいとも簡単に「他人」になれる人間のドライな一面、そして、孤独さを引き立てているように感じます。

 

 

今の僕と「向こうの僕」

 

 次に「最果てではフクロウのような目をした僕が髪の毛を濡らして立っている」と続きます。「最果て」はどこなんでしょうかね?「フクロウのような目」「髪の毛を濡らして立っている」ってというのも解釈が難しいですね。。

 

  そこで、先に進むと「向こうの僕」が登場します。これは「最果てで」「フクロウのような目をした僕」と同じ人なのではないかと思います。そして「ばかという言葉」は「向こうの僕」が「生まれて何年何十年たつのか」「知っていそうだ」と続いてます。

 

 私は「向こうの僕」を過去の自分、人間という存在に絶望してしまった自分なのではないかと感じました。そうすると、この歌は今の自分「最果て」の「僕」=「向こうの僕」つまり過去の時点での絶望した自分が出てくるのかなと。

 

 文字通り「ばかという言葉が生まれ」たときではなく、人間への希望を失った「僕」という「ばか」が生まれた。そして、「ばか」が生まれた時点から「何年何十年」もの日々が経過しているような気がする。この「何年何十年」というのはレトリックだ思います。それくらい長い時間だと。。

 

 順番が前後しますが、歌詞のここともリンクするのかなあと。

 

 「幸せはそれぞれの価値観で でもいつか死ぬことは同じで

  そんなことを考えていたら季節が終わっていた」
 
 色んな人が何が幸せだ、なんだかんだ言っているが、結局は人間平等に死ぬ。はじまったことはいつかは終わるものなんだと。そんな真理を突きつけられながら「季節が終わっていた」。これは「日々たち」から置いてけぼりを食って「最果て」に立ち尽くす「僕」のことを歌っているように思います。

 

 話を戻しますと、「髪の毛を濡らして」は「涙した」ことの言い換えだと推測できます。では「フクロウのような目」とはどんな目か?フクロウは知恵の象徴です。人間のエゴや救いようのなさ、存在の儚さなど、目の前の現実を悟ったことを表しているのかなと思いました。目については次にも言及されていますね。

 

 

嫌いだからじゃなくて憎いのです

 

 

「悪い目で」「世界を」「拒む」のは、

「悪い目で」「景色を」「睨む」のは、

 

「嫌いだから」じゃなく「憎いのです」

 

 人間のエゴや救いようのなさ、人間の儚さを悟ったからには、そういった宿命への拒絶や敵視という感情は自然と沸き起こるものだと思います。そういう経験はないでしょうか?人間って浅はかだなあとか、か弱いなあとか。。

 

 しかし、嫌悪感じゃなく、ただおそらく「憎い」という感情があると歌っています。そんな現実を前に立ち尽くすしかない自分をよそに「日々たち」は過ぎ去ってしまう。。そこへの憎しみなのかもしれません。。そんな「日々たちが憎いのです」というのは、そんな世界でも捨てきれない感情がどこかにあるからなのでしょうね。。

 

 

それでも愛していたい

 

「全部というくくりで感傷的になって」「君はいつもより元気で」

「色彩がありすぎるこの日々」を「それでも愛していたい」

 

 「全部というくくり」はこじつけ気味ですが次のように考えました。

 

 全部を一くくりにしてというのは、例えば「恋人の好きなところは?」と聞かれて「全部!」と答えるような無邪気で惚気な感じかなと。好きなところを具体的に言えないというのは相手がよく見えていないということだと私は思うのです。これは「フクロウのような目」「悪い目」との対比だとも捉えられるのかなあと。。

 

 しかしながら、相手をよく見た上でをまるっと包み込んで「全部!」と答えることができるのが愛であるとも言えるわけです。

 

 「色彩がありすぎるこの日々」これについては、色々なことを悟った上で。そんな世界をも愛していきたいという決意がこもっていると受け取ります。。

 そもそも愛しさと憎さというのは反対のようで、執着という意味では同じだと言えます。憎さが愛へと昇華する様を歌っているとも読めますね。。

 

 ここでタイトル「独赤」に戻ると、「色彩がありすぎる日々」と「独赤」との対比ともとれるわけです。過剰な色彩に押しつぶされそうになりながらも、自分もその中の一つの色として生きていこうという風にも読めます。

 

「フクロウのような目」をした「僕」は本当に「ばか」なのか?

 

 人間のエゴや救えなさ、存在の儚さを悟ったのだから、「向こうの僕」は賢いのではないかと途中で私は思いました。そういう部分ってできれば見たくないじゃないですか。そこを悟ったというのは賢い人だと思います。

 しかし、そこを「ばか」だと断じているのですね。それはたぶん、そういう一切合切を悟ってから、泣いて立ち止まってしまった自分を「ばか」だと言っているのではないかと。。夏目漱石の『こころ』の「精神的向上心がないものはばかだ」というセリフを思い出しました。

 歌の最後には「それでも愛していたい」と前を向いている僕がいるので、この時点から過去の「僕」は「ばか」に見えるのだろうと思います。

 

 

こじつけもここまでいくと深いですね(笑)

 

 

こころ (新潮文庫)

 

力作です。

rowanatkinson.hatenablog.com